Chihiro SHIMIZU  清水千弘 本文へジャンプ
Seminar: 清水ゼミ

清水千弘・紹介

Seminar: 清水ゼミトップページ

2007年, 2008年, 2009年, 2010年, 2011年 2013年 2014年


公式略歴

 

清水千弘(しみずちひろ)

 

東京大学空間情報科学研究センター特任教授,日本大学スポーツ科学部教授,麗澤大学AIビジネス研究センターセンター長・都市不動産科学研究センター長(特任教授)

 

1967年 岐阜県大垣市生まれ。東京工業大学大学院理工学研究科博士後期課程中退,東京大学大学院新領域創成科学研究科博士(環境学)。麗澤大学経済学部准教授・教授,ブリティッシュコロンビア大学経済学部,シンガポール国立大学不動産研究センター,香港大学建設不動産学部客員教授等を経て,現職。また,財団法人日本不動産研究所研究員,リクルート住宅総合研究所主任研究員,リクルートAI研究所フェロー,リクルートワークス研究所客員研究員,キャノングローバル戦略研究所主席研究員,金融庁金融研究センター特別研究員なども歴任した。

専門は,指数理論・ビッグデータ解析・不動産経済学・スポーツデータサイエンス。

 

主な著者に,『Property Price Index(Springer:共著)『市場分析のための統計学入門』(朝倉書店:単著),『不動産市場の計量経済分析』(朝倉書店:単著),『不動産市場分析』(住宅新報社:単著),『不動産テック』(朝倉書店:編著)など。国際的な学術誌には50本以上の論文が公刊され,日本語での論文を入れると150本を超える。マサチューセッツ工科大学不動産研究センター研究員を兼務する。総務省統計委員会専門委員等を務める。


Chihiro Shimizu,

 

Chihiro Shimizu, Ph.D., is Professor of Nihon University & Center for Spatial Information Science of The University of Tokyo in Japan and research affiliate of Center of Real Estate at Massachusetts Institute of Technology in US. His areas of expertise are Index Theory, Real Estate Economics, and Applied Econometrics. Before joining Nihon University & The University of Tokyo, Dr. Shimizu was Professor at Department of Economics, Reitaku University and Visiting Professor, University of British Columbia and National University of Singapore. From 2013 to 2015 he participated as a specialist in a project promoted mainly by the IMF, OECD, BIS and others related to preparing international handbook on official commercial property price indices. He has contributed a number of theses to international academic journals; Journal of Financial Economics, Review of Income and Wealth, Journal of Statistics and Economics, Regional Science and Urban Economics, Real Estate Economics, Journal of Housing Economics etc as well as published numerous theses and books in Japan.

 

https://orcid.org/0000-0001-8762-8818



自己紹介

人生、「今」、「ここ」しかない。

私が50年以上の人生を生きてきて分かったことです。私も含めて、人の人生には成功も失敗もありません。それぞれの尺度の中で、死ぬときに、自分が評価をすればいい。人が評価するものではありません。

 

私の略歴です。公式なものは格好のいいことしか書かないからね。

 

岐阜県大垣市赤坂町で1967年5月28日に生まれました。父は銀行員、母は専業主婦、兄がいておばあさんと同居する、当時の日本では典型的な家庭で育ちました。祖父は1945年の終戦の年になくなっていていました。祖母は、戦後直後の事故で両足をなくしていましたので、生まれたときから身障者と生活を共にしていたため、わたしの障碍者支援の活動もこのような環境がきっかけになっていると思います。

人生の中には、その瞬間は大きな挫折でも、後から見たときに、大きな転機になっている瞬間があります。ある瞬間に大きな成功をおさめても、その後に転げ落ちていくようなこともあります。

 

兄は、私が生まれてすぐに交通事故に遭い、両親が兄の看病をしないといけなくなりました。前述のように祖母には両足がありませんでしたので、祖母が生まれたばかりの私の面倒を見ることに限界があり、生まれてすぐに私は親族に預けられます。兄は、数年間に及ぶ入院生活を送りました。その意味で、私には、2人の父と母がいます。皆さんの愛情を注いでいただき育ちました。大垣の家に戻るときに、わけもわからず大泣きしたこと、状況が理解できた小学生くらいの時から、夏休みなどの長期休暇は、もう一人の父や母の下で過ごしていたことを覚えています。

 

小学生の時も、中学生の時も生徒会長をしていましたので、たくさんの友達には恵まれていましたが、けして優等生ではありませんでした。ただスポーツだけはできて、陸上競技をはじめとして、様々な競技で学校の代表として出場をして、いくつかのメダルを頂いていました。中でも、テニスに没頭しました。中学時代には、インハイ・インカレで優勝され、地元の実業団で監督をされていた木本有信さんのご指導をいただく機会があり、一応、それなりに実績を上げていたので、地元の普通高校と複数のスカウトしていただいていた強豪校に進学するのかどうかを悩みます。最後は、父の「人生を長く見たときには選択肢の多い普通高校にき、その中で夢を追った方が良い」という助言に基づき、岐阜県立大垣北高等学校に進学しました。そこには、東京大学に進学し外交官になった友人や、京都大学で教授になったような友人たちと出会います。しかし、テニスしか関心がない私は、勉強に身が入るわけがありません。高校時代は、高校1年生から2年生の間に、第2回日独スポーツ交流協会の派遣選手としてドイツに行く機会にも恵まれました。ミズノというスポーツメーカーの創業者の水野氏は岐阜県の美濃地方の出身ということで、かつては、「美津濃」と呼んでいました。そのため、バット工場が養老町に、ラケット工場が関ヶ原町にありました。地元ということで、ミズノが私の応援をしてくれるようになったことも大きく、スポンサーとして私にあったラケットを開発してくれたりしていただきました。またドイツへの派遣の時には、地元企業である西濃運輸もスポンサーになってくださいました。ドイツでの経験は、のちの私の人生に大きな影響をもたらします。海外志向はここで培われたと思います。

 

高校ではなかなか試合では勝てない時期が続きましたが、高校二年生の時に、岐阜県テニス連盟が、私の高校に、日本体育大学でインカレ優勝経験のある堀部泰弘先生を異動させてくださいました。もちろん中学時代からご指導をいただいていた木本氏にも継続して指導をいただきました。堀部先生から、夏合宿の時に、インターハイなどに出ていくには、「本人の才能、努力、良き指導者だけでは無理だ。運が必要である。運は、努力が導くものである」と言われたことを思い出します。そして、自分だけでなく、部全体を強くしないといけないと。夢叶い、個人ではインターハイなどの全国大会に出場。何よりうれしかったのが、私が卒業した後、後輩たちが、団体戦で全国大会に出たことです。ここで、組織として戦うことの大切さ、教育者のすばらしさを学びました。

 

大学進学は、これまた悩みました。関東・関西のテニス強豪校だけでなく、インターハイが開催された県の国立大学からもお誘いをいただきました。一番あこがれていたのが、堀部先生のご出身の日本体育大学でした。その時に、堀部先生から、スポーツ推薦で行ったときには、怪我が悪化して部活を辞めたときには、大学そのものを退学しないといけない。大学を卒業した後の人生を考えて、学部もしっかりとえらんで、受験していきなさいという指導を受けました。高校進学の時に、父が私にくれた助言と同じです。そして、テニスの関東一部リーグの強豪校を一般受験で受験し、金森監督という名物監督がいる日本大学に進学しました。

 

しかし、堀部先生の予感的中で、大学進学後、もともと痛めていた肘と膝が限界が来て、すぐにテニスができない状況に追い込まれます。一時は歩くことすらままならなくなってしまいました。テニス中心の人生を歩んできた私は、目標を失うことになります。そのような中で、ゼミを選択することがあり、田中啓一先生、中村貢先生と出会うことになります。田中先生は、不動産経済学の大家で、私の大学生時代は、バブル真っただ中でしたので、毎日忙しく、霞が関に出向き、建設省や国土庁の政策に関与されていました。政府の要職に就かれておられ、とても人気ゼミで日大の中でも特待生しか入ることが出来ないと言われていました。幸い、進学校から受験勉強などしないままに進学していたこともあり、日大ではすぐに特待生になっていました。私のテニスにかけていたエネルギーを学問に向け始めたのが大学2年生になった時でした。そして、田中ゼミで過ごしつつ、中村貢先生に出会います。

中村貢先生は、東京大学経済学部長を経て、日本大学に来ておられました。戦後、日本で最初に計量経済学を教えられた先生です。素晴らしい教育者で、マンツーマンで統計学の基礎からマクロモデルまでご指導をいただきました。そして、戦後の日本の公的統計の礎を作ってこられた先生のお一人であり、公的統計の重要性と、その設計において大切にしないといけないことをご指導いただきました。今、私が統計委員会にいることが出来ているのは、中村先生のご指導のおかげです。そして、不動産関係で、国土交通省などの審議会に入れていただいているのは、田中啓一先生のおかげです。そして、私の研究テーマが、「不動産価格指数」という問題を取り上げているのは、お二人の先生のご指導の下で育った私にとって、極めて自然な流れでした。

 

大学2年生からは、本当に勉強に没頭しました。そして、お二人の先生のすすめで大学院へと進学していきました。中村先生から、研究者になることの難しさは進学の時に話を伺いました。そして、ご自身は、高齢なので、自分の教え子である先生に指導をお願いするので、その先生方のどなたかに指導を受けなさいと言われました。私が在学中に、ちょうど中村貢先生の東京大学の退官記念論文集が東京大学出版会から出版されました。その本のタイトルが、『日本の株価・地価』でした。そして、その本の監修をされていたのが、西村清彦先生でした。中村先生のご紹介を受け、西村先生にご指導をいただくことになりました。そして、中村先生から、私の人生に大きな影響を与える、次の助言をもらいます。

「経済理論の世界で闘っていくことは無理である。計量経済学の理論も同様で、これからは、実際のコンピューターを用いて、実際のデータを使って計算できる研究者が必要とされるので、その分野に徹しなさい。そうすれば、多くの先生方にかわいがってもらえる。重宝してもらいながら、共同研究者として多くのプロジェクトにかかわる中で自分を見つけ出すことが出来る」と。今でいう、経済モデルもわかる「データサイエンティスト」です。当時のコンピューターは本当に動かすだけで大変で、一部の専門家しか使いこなすことができませんでした。特に経済分野にはいなくて、工学部や理学部が優位性を持っていました。

東京大学の中村先生の計量経済学の講義には、東大の若い研究者が多く来ておられたそうです。その中に、のちの指導教授になっていただく、東京大学工学部都市工学科の浅見泰司先生や東大の土木工学の准教授から東工大に戻られて教授になられた肥田野登先生がいらっしゃいました。中村先生のご推薦をいただき、受験勉強をし直して、東京工業大学大学院へと進学し、肥田野先生を師事することとなりました。

 

テニスができなくなることは、大きく挫折でしたが、今になって振り返ると、大きな転機だったわけです。

 

しかし、このように勉強に没頭ができていたのも、家族の支えがあってこそでした。大学院に進学した後に、私の人生に、また大きな困難とぶつかることになります。大学院在学中に、祖母が痴ほう症となり、祖母の介護をしていた母が脳内出血で倒れ、半身不随となってしまったのです。そして、二人の介護に追われていた父が癌で倒れます。大学院博士課程の1年生の時に、父の余命宣告を受けたのです。そして、3人の介護が始まります。今でいうヤングケアラーというのでしょうか。金曜日の夜に、週末に東京から大垣に戻り、三人の病院を回る生活が始まります。そして、父が最後を迎えたときに、私自身、心が折れてしまい、大学院を退学することとなりました。

 

しかし、研究者の道をあきらめていたわけではありません。先生方のご紹介で、財団法人日本不動産研究所の研究員として就職させていただきました。その中で研究者として仕事を通じて勉強させていただく機会をいただいたのです。市街地価格指数という戦前から公表している地価指数や、「全国賃料統計」の設計、旧・経済企画庁とは、国民経済計算の土地資産額の推計や、旧・大蔵省とは国有財産の推計、東京都の固定資産税の評価など、私の今の研究の基盤になるような実務経験を積ませていただくことが出来ました。ここでは、IBMAS400という大型汎用機を用いて、当時ではかなりのビッグデータであった数千万件の大規模データを分析すること、政策立案などにも関わるといった経験が出来ました。このような形で、論文は書くことが出来なくても、1990年代を過ごすことが出来たのは、後の私の大きな財産になっていきました。

 

しかし、悪いことは続くものです。2000年に末っ子が誕生すると同時に、家族に癌が見つかります。そこから家族としての闘病生活が始まりました。そのような中で、リクルートが研究所を作るということで、出勤義務がない「スペシャリスト職」という形でお誘いをいただき、リクルートへの転職していくこととなります。私が、リクルートのS職第2号でした。第1号が東工大の先輩になり、ワークス研究所の立ち上げにかかわられた角方さんでした。働き方が先進的で、家族の介護や子育てを優先しながら、仕事をさせていただきました。リクルートは、どんなに恩をお返ししても、返しきれないだけのことをしていただきました。

 

リクルートでは、住宅総合研究所の設立、リクルートのビッグデータを用いた住宅価格指数の開発と配信など、自分の専門性を生かした研究と実装だけでなく、新規事業の立ち上げにも参加させていただきました。フリーペーパー事業、なかでもホットペッパーの事業開発、事業ポートフォリオにかかわる事業統括など、多くの経験をさせていただきました。また、当時の河野英子社長が経済同友会の副代表幹事となられたり、小泉政権の総合規制改革会議の委員に任命されたりしたことから、社長室をで政策秘書を兼務し、政策提言にも関わる機会をいただきました。

 

しかし、家族の状況は好転したわけではありません。そこで、子育てをしやすい環境を探している中で、麗澤大学とご縁が出来ます。東京工業大学の大学院生の時からご指導をいただいていた小野宏哉 麗澤大学元副学長がいらっしゃったため、何度も研究指導をいただきに伺ってはいました。そこに幼稚園があるということで、ちょうど子供が幼稚園に入る年齢になるときに、麗澤大学で教鞭をとる機会をいただきました。それが38歳の時。同世代の研究者たちより10年以上遅れての研究者としてのスタートでした。

 

その後も、大きなご縁の中で生きてきました。リクルート在職中に、家族のがんの治療で米国またはメキシコのティファナという街で日本では認可されていない治療をするために行っていた時には、西村先生のご紹介で、南カリフォルニア大学のLusk Center for Real Estateでお世話になります。そこでご指導を頂いたのが、当時は准教授だったYongheng Deng教授です。奥様のWei Feiさんとともに、私のメンターの一人として、その後の私の人生を支えていただくことになります。Deng教授はその後にシンガポール国立大学の不動産学部長となり、私をシンガポールによんでいただくこととなりました。バンクーバーに続く、シンガポールでの生活は、新しい友人との出会いだけでなく、多くの刺激をいただきました。

 

私の三人の子供たちは、中学から寮生活をさせていました。末っ子が寮生活を始める直前の3年間を、バンクーバーのブリティッシュコロンビア大学で過ごさせていただきました。IMFが主導して進めていた不動産価格指数の国際的な整備をすすめていく中で、その中心的な役割を担われていたErwin Diewert教授に招聘していただきました。バンクーバーでは、 奥様でUBCの歯学部長も務められたVirginia Diewert夫妻とも、私たち家族は、本当にお世話になりました。そして、今でもメンターとして人生を支えてくださっています。

 

テニスの監督として指導くださった木本氏、堀部先生から始まり、Diewert教授、Deng教授に至るまで、本当に良き師との出会いによって人生が大きく変わっていきました。

 

もう一つは良き友です。Patrick Hendershott教授という著名な不動産経済学者がいました。その教授が引退するときに、スコットランドのスカイ島に若手研究者を集めてワークショップを開催するという手紙が届きます。そのワークショップに論文を送ったところ採択していただき、スカイ島に招待していただきました。1週間のワークショップで、そこに集められた10名ほどの同世代の研究者たちと合宿のような形で議論を交わしました。New Leaders Conferenceと名付けられていて、次世代の不動産経済学・ファイナンスのNew Leaderを発掘するというものでした。連日、議論をし、スコッチウイスキーを楽しんでいると、昔からの友人のようになっていくわけです。
そこで出会った、

Franz Fuerst ケンブリッジ大学教授

Marc Francke アムステルダム大学教授

Christian Hilber LSE (London School of Economics)教授

Piyush Tiwari メルボルン大学教授

らとは、生涯の友と思っています。

 

人生の中では、本当に多くの困難にぶつかります。大切な方々との別れもあります。自分自身が病気になったり、怪我をしたりすることで、追い続けていたことをあきらめなければならなかったり、持続することが出来なくなったりすることもあります。しかし、それは転機でもあります。

きっと人生は、「今」のこの瞬間しかなく、「ここ」という目の前の場所しかないと思います。

 

ここからの私のストーリーは、公式な略歴として記録されていくものと思います。私自身が新しく教育を始めるにあたり、皆さんが何かを感じ取っていただければと思い、紹介しました。

 

人生は何度でもやり直せます。成功したとか失敗したとかといったことは、他人が決めるのではなく、自分が決めることです。人と比較することでもありません。

 

自分が納得した人生を歩んでいきましょう。


今、健康でいることに感謝し、それぞれの人生を歩んでいきましょう。