「抹茶と母」

2年前のお盆を迎えようとする前に,母が旅立った。母は,25年間,脳内出血の後遺症で半身不随の状態が続いていた。

私が研究者を志し,大学院に進学した頃に,父が第二の人生として取締役を務めていた製菓会社が倒産した。人事担当だった父は,従業員の解雇と再就職先を探すために奔走していたそうである。そんな中で祖母の痴呆が進み,その介護と父を支えるために,母も必死に闘っていた。このような父母の姿を見て,私は研究者の道を断念し,就職をすることを決意した。

その就職の報告を兼ねて岐阜の実家に帰った時に,父と母は申し訳なさそうにしていたが,その一方でどこかで安堵した表情だったことを思い出す。
入社式に出席するために東京に戻る時である。母は,地元の名店・川貞という鰻屋さんで弁当を買ってもたせてくれ,大垣駅まで見送ってくれた。そして,自宅に帰ってすぐに倒れてしまったということだった。それが健康な母を見た最期となってしまった。

その後の父の母に対する介護はすさまじいものだった。幸いにも,地元のタニサケという会社で職を得た父は,仕事の傍ら,痴呆症になってしまった祖母の介護,そして母のリハビリと,一生懸命に向き合っていた。そんな父も,その半年後には癌に倒れ,帰らぬ人となった。

その後,仲間たちから10年以上も遅れ四十に手が届こうとした頃に,私が東京大学から博士号をいただき,そして麗澤大学で研究者の職を得たときに,母は,兄とともに涙を流して喜んでくれた。一度はあきらめた研究者になれたことを,誰よりも喜んでくれたのである。

晩年の母は,言葉も失い意識も朦朧としていたが,私が行くと「ウァー」という言葉を出した。私のことだけは認識していてくれたようである。しかし,私の中では,中学・高校と部活で疲れて帰ると凛として笑顔で抹茶をたて,一服させてくれた母の姿だけが脳裏に残っている。その母と静かに過ごした二人だけの時間(とき)が,今でも忘れられない。


                  2015年8月11日 母が逝って2年目を迎えて