「辛抱」


 卒業が近くなると,毎年,卒業が出来ない学生が出てくる。その学生の中には,必ずと言っていいほどに就職が決まっている学生が混ざる。今年も,二人の学生が該当した。一人は,履修区分を間違えてしまい,十分に単位は取れているものの,卒業が出来なくなってしまった学生,もう一人は,試験当日に寝坊をしてしまい,2単位を残してしまった学生である。
 前者の学生は,毎年のことではあるが,どうしようもない。毎年のように,親御さんまで出てくるのだが,大学としては配慮のしようがない。後者の学生も本人の責任ではあり,前者の学生よりも情状酌量の余地は小さい。一方で,担当教員のさじ加減で,卒業試験まで持っていけば卒業をさせることは出来る,という抜け穴がある。つまり,卒業再試を受けることが出来る程度の成績をつけ,再試験の中で合格を出すことで卒業をさせることが制度的に出来るのである。このような問題が出てくると,教務主任としての判断が求められる。
 教務主任として最も楽な解決方法は,担当教員にお願いし,最終評定の修正をしてもらった上で,卒業試験を実施してもらい卒業させることである。これであれば,就職内定率の目標を持つキャリアセンターや就職先の企業に波風を立てることもない。しかし,このような卒業のさせ方をして,本人にとって本当にいいのであろうかという疑問が出てくる。このような失敗は,社会では消して許されるものではない。その中で安易な解決をしてしまっては,学生が同じ過ちを犯すのではないか,長い彼の人生の中では一度苦労をしてでも自分の過ちと向き合う時間を作ってあげた方がいいのではないか,きちんと教育をした上で社会に送り出した方がいいのではないか,ということも考えられる。
 一方で,そのような判断をして留年させたときに,この厳しい中で卒業時に就職先が見つかるのか,そこまでの責任を自分で負うことが出来るのかという不安,キャリアセンターや就職先との調整をするための時間を節約したいというずるい気持ちなども出てくる。
 このようななかで,最終的には,原則を大切にし,卒業をさせないという判断をするとともに,ご迷惑をおかけする内定先の社長様に面談をさせていただき,謝罪に行くことを決めた。しかし,残念ながら,社長は激怒され内定は取り消され,私との面会も拒絶された。その中で,教務主任として指導が行き届かなかったことを謝罪するお手紙を出した。そのお返事として,「しっかりとした指導をして,厳格に卒業認定をしていることには共感をする。そういう大学から是非とも学生をとりたい。いい学生がいたら麗澤大学からまた採用させてもらいたい」というお返事が届く。その意味では,この決断に間違いがなかったものと確信することはできた。
 私たちは,面倒見がいいと言うことを,学生を甘やかすと取り違える場合がある。「学生起点」という言葉は耳障りはいいが,学生の成長を願う時には,ぐっと「辛抱」をするときもあるのではないか。
 この新学期も「学生が希望しているのだから」という理由のもとで,本来のカリキュラムの設計としは異なるような履修のさせ方をしたいという要請が教員から出てくる。しかし,私たち教員は,一度,ぐっと踏みとどまり,辛抱という棒をたてて,長期的な視点のもとで学生と向き合っていく必要があるのではないかと思っている。
 最近は,学生も親御さんも,そして我々教員も,「辛抱」をすることが出来なくなっているのではないかと考えさせられた。
 そんな中,その留年をさせた学生から,ある会社で内定がとれたという連絡が入る。そんな嬉しい報告はない。

                         2014年4月16日 研究室にて