「お・も・て・な・し」と大学淘汰

オリンピック招致に向けてのプレゼンにおいて、日本のプレゼンテーターが使った「お・も・て・な・し」という言葉が、最近、特に使われるようになった。講談社の「日本語大辞典」を開いてみると、この言葉はない。そこで、「もてなし(持て成し)」という言葉を引くと、「もてなすこと(treatment)、待遇(hospitality)、ごちそう・ふるまい(entertainment)」と書かれている。「お・もてなし」ということだから、この「持て成し」という言葉をより丁寧に行うと言うことであろう。

東京という街は、本当に、おもてなしができる都市なのであろうか。私のシカゴ大学の共同研究者であるTerry Nicholas Clark教授は、都市は「Entertainment Machine」であると言った。人は産業(お金)があるところに集まるのではなく、広い意味でのアメニティが集積しているエンターテイメントが豊かな街に集まるというのである。その意味では、東京にはたくさんの「ごちそう(entertainment)」がある。ミシュランが示したように、東京のレストランのレベルは世界でも最高水準であろうし、多くの歴史的な建造物も残る。サッカー、野球などの欧米発祥のスポーツだけでなく、相撲などの観戦もできるし、美術館、動物園なども完備されている。アーティストのコンサートやオペラやショウだけでなく、日本固有の落語なども多くの場所で楽しむことができる。地下鉄などの鉄道網も世界で最高水準あると言っても良い。

それでは、「もてなすこと(treatment)、待遇(hospitality)」といった意味ではどうであろうか。バンクーバーの大学の日本人の同僚家族と食事をしていたときである。1歳と3歳のお子さんがいらっしゃるのだが、日本の鉄道の中などでは、日本人は子連れのお母さんに優しくないので、あまり行きたくないという。ちょっとした気遣いが実は日本人は「まだまだ」なのである。これは東京だけでなく、地方都市に旅行や出張に行くと、観光地といえども気遣いがなくがっかりすることが少なくない。実は、人が集まらない観光地は、観光地としての魅力、「ごちそう(entertainment)」がないというのではなく、そこにいる人たちの「もてなすこと(treatment)、待遇(hospitality)」が欠如しているのではないか。

このようなことは、大学も同じであろう。高校生の絶対数が減少していく中で、多くの大学で定員割れをしてしまっている。定員割れをしている大学は、大学の設備や広報、カリキュラムなどの「ごちそう(entertainment)」を増強しようと躍起になっている。しかし、より大切なのは、そこでサービスを提供している教員・職員が、お客様である学生に対して「もてなすこと(treatment)、待遇(hospitality)」をしっかりとやっているのかと言うことではないか。広報やカリキュラムなどの「ごちそう(entertainment)」を増強しようと躍起になればなるほど、そのような仕事に疲れた教員・職員は、学生に対する「おもてなし」ができなくなってしまう。「ごちそう(entertainment)」の増強のための会議や作業に忙殺され、物理的に時間がなくなり、もてなすことを放棄せざるをえない。放棄していないとしても、どこかで手を抜いてしまっている。手を拭きたくなくても、自然と誰もが気がつかないところで、手抜き・片手間になってしまうのである。本業であるはずの仕事で手抜きがあり、片手間になり、社会での存在意義を失っていく。これが組織にとって一番怖いことである。このようなことは、多くの倒産していった企業でも見られたことである。

大学淘汰が予感される中で、「もてなすこと(treatment)、待遇(hospitality)」を忘れた大学は、数十年後には、その社会的な使命が終わっているのではないか。

2013年11月3日 ホームカミングディの日に