「心が麻痺するとき」

毎年の行事であるが,八月の上旬に,麗澤大学に関心を持つ高校生を集めて一泊二日の体験入学が実施された。初日が終わり,大学に宿泊していたときである。兄からの電話で母が他界したことを知った。早朝に病院から電話があり,入院していた母が冷たくなっていたという。
この連絡をもらったときに,なぜか「悲しさ」を感じなかった。その日の一日の仕事をどうしたらいいのか,明日からの仕事をどのようにしたらいいのかといったことが最初に浮かんでしまった。
母は,今から22年前に,脳内出血で倒れた。その日は,岐阜県大垣市の実家から,入社式に出席をするために東京に帰った日であった。私を大垣駅まで送り,昔からのなじみであった「川貞」といううなぎ屋さんでお弁当を買ってもたせてくれて列車に乗ったことを思い出す。私を駅まで送り届けて家に戻った母は,すぐに倒れたようである。そんな母を夜に帰宅した父が見つけたのである。その頃の母は本当に疲れ切っていた。その10ヶ月前に父が務めていた会社が会社更生法を提出した。人事担当役員だった父は,その社員の解雇を担当し,多くの苦労をした。その中で同居をしていた祖母は痴呆症になってしまい,その看病も母にふりかかった。
私が,母の病院に駆けつけることが出来たのは,翌日の朝であった。大垣行きの夜行列車に飛び乗り,母の元に駆けつけたときには,父,兄,そして親戚の方が集まっていた。とても危険な状態だと言われた。その後,奇跡的に母は一命を取りとめたものの,半身不随となり,言葉が不自由になった。
自分で多くのことが出来なくなってしまった母であったが,そのような中でも出来る限り明るく生きることを心がけていた。しかし,時間と共に一つずつ母が出来ることはなくなっていってしまった。ここ数年は,介護施設でお世話になったが,食べることすら出来なくなる中で胃瘻をすることとなり,母の部屋を訪ねても私だと言うことを認識することが出来る機会は少なくなっていった。
私が母の死の悲しさを感じることが出来なかったのは,そのような苦しみから母が解放されたことに対する安堵感ではない。私自身の心が,仕事の忙しさから「麻痺」してしまっていたのである。本当に怖いことである。自分のことしか考えることが出来ない自分がそこに居た。仕事のことしか考えることしか出来ない自分が居た。
母が倒れ,意識が戻らない中で,父は私たち兄姉に,「男は仕事に穴を空けてはいけない」といい,母の意識が戻らない中で,兄を当時の職場があった大阪に,そして私を入社式に出席するために東京に戻した。そんな父の背中を見てきた私は,仕事は何よりも大切なものと思っていた。しかし,母の死の悲しさすら感じることが出来なくしてしまう仕事とは何なのか。仕事に誠実に向き合ってきた父は,母と祖母の看病にも追われ,母が倒れてちょうど一年後に他界した。
私は,何のために仕事をしているのか,誰のために仕事をしているのか。そんな疑問が出てくる中で,仕事をしようとすると,身体が拒否してしまうような日が数週間続いた。目の前に仕事があるのに,それをしようとすると身体が拒否してしまうのである。それでも仕事が追いかけてくる。
少しずつ心を取り戻す中で,母を失った悲しさが襲いかかってきた。いつも私に対して無償の愛を与え続けてくれた父が居なくなり20年以上が過ぎ,そして誰よりも私を愛してくれた母も居なくなった。私は,自分の子供達にどんな背中を見せて,どんな生き方をしていくべきなのか。その答えは未だに見つかっていない。

母の七七日を迎えて・大垣にて