「一生懸命」と「いい(良い)加減」

「仏道をならふというふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり」。道元禅師の言葉である。私の禅との出会いは,今から15年も前のことであろうか。ある人との出会いの中で,禅の世界に足を踏み入れることとなった。月に一度だけではあったが,7年間,鎌倉に通った。
「一生懸命」に何かに打ち込むことは,自分の中ではいつからかはわからないが,美徳であると植え付けられていた。中学・高校とテニスをしていたときは,「一生懸命」にテニスをした。大学に入ってからは,「一生懸命」に勉強をした。社会人になってからは,「一生懸命」に仕事をした。仕事が忙しいときには,一週間のうちに何日も職場に泊まり込むことも少なくなかった。
しかし,ある日,その「一生懸命」は,多くの人を傷つけていたことに気がつく。高校時代には,テニスに没頭するあまり,友人との約束を破ったこともあった。大学生時代には,自分の勉学に没頭するあまりに,友人や当時からつきあっていた家内をずいぶんと振り回してしまった。社会人になってからは,仕事に没頭するあまりに,長女が誕生したときも,実家で出産した家内の病院に行くことができたのは出産後5日もたった後で,病院に行くとをすでに退院していたなどといったこともあった,しかし,「一生懸命」やっているんだから仕方がない,許されるはずであるといったおごりが自分の中にあった。
しかし,この「一生懸命」ほどやっかいなものはない。多くの場合において,この「一生懸命」は,自分のためだけに行われている。一見,誰かのためにしているようでも,何かの見返りを求めている場合の方が多い。仕事ばかりに没頭していたある日に,偶然にも,禅に出会うこととなったのである。
禅のご修行の一日は,作務と呼ばれるお掃除から始まる。そして,ひたすらに息を吐き,座る。その中にあるのは「自己を忘れること」,つまり「無」を求める。自己,つまり自我をなくすためには,ひたすらにお掃除をし,座る。では,なぜ自己を捨てないといけないのかということになるであろう。
自我が強く働く世界では,必ずといって良いほど,誰かを傷つけてしまう。それが「一生懸命」にやるほどに,より多くの人を,そしてより深く傷つけている。手を抜いていれば良いかと言えば,それはそれで人を傷つけなくても,その人の周りの社会を壊してしまう。もっとやっかいなことになる。やはり,「いい(良い)加減」でなければならない。
先日,島根県の益田市にあるMランドという自動車学校を訪問させていただく機会を得た。そして,そこで,生徒さん達と一緒にトイレ掃除を体験させていただいた。作務の境地がそこにあった。ただ無心に手でトイレを磨く。そのときには,自分勝手は許されない。自己を運ばずに,自分勝手ではなく「決められた方法」で,ただトイレを磨く。
そして,ご一緒させていただいたある会社の会長,そして,その自動車学校の会長と共に時間を過ごす中で,『いい加減』の姿に触れさせていただいた。その方たちのたった一言の中に,「ちょうど」『いい加減』という自然体の姿を見させていただいた。それは,頭で考えるものではなく,実践の中でこそ育まれ,身につくものであろう。そのような人の前に直面したとき,またまた「一生懸命」に仕事に打ち込む自分の姿が浮き彫りにされる。その姿は,年をとった分だけやっかいなものになっている。
このお二人のように,「自己をわするるといふは,万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは,自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」といった境地に,いつの日か自分が近づくことはできるのであろうか。
July 5,2013 ウィーンにて