「父母」

バンクーバーで子供が通う日本人補修授業校のクラス新聞から,私の「故郷」について紹介してほしいという依頼をいただいた。また,現地の小学校からは,子供の一歳の時の誕生日ということを聞かれた。自分の故郷と,子供の成長と一歳の時の彼の誕生日の様子を思い出すに当たり,自分の故郷と一歳の誕生日の様子を考えた。

父母,または故郷ということを考えるに当たり,中学生のころに読んだ,室生犀星の『ふるさとは遠きにありて思ふもの』という詩を思い出した。

私の一歳の誕生日は,母の姉夫婦の家で迎えた。私が生まれて一ヶ月後に,兄が交通事故に遭った。そして,兄は,数年間を病院で過ごすことを余儀なくされた。そのため,生後一か月後には,私は母の姉夫婦に預けられたのである。
子供がいなかった母の姉夫婦は,私を本当に可愛がってくれた。最初の誕生日も,そして,その後の数年間をも,その家で過ごした。

そのため,私には二人の父と母がいるのである。二人の母は,姉妹のために性格もよく似ていた。育ての父は,魚釣りが大好きであり,家から港が近かったこともあり,週末はいつも釣りに出かけていた。父は,母の実家が経営する運送会社に勤めていたため,トラックに乗ってはいろいろなところにも連れて行ってもらった。トラックの荷台に乗り込んでついていったようなこともあった。

そして,私は,兄の退院とともに,実の父母のところに戻ることとなった。その時には,自分の父母と引き離されると思い泣きわめき,母も涙を流していたことを鮮明に覚えている。

実の父は,銀行員でとても厳格な人であった。いつも話をするときには,座敷で正座をして向き合わなければならないような威厳を持ち合わせていた。

私が小学校中学年になった頃には,一人で電車とバスを乗り継ぎ,幼少の頃の父母をたびたび訪ねるようになった。幼少のころの父母を石田のお父さん,お母さん(母の姉夫婦は石田という姓でした)と呼び,半ば自由な生活を求めるように訪ねていたのかもしれない。


しかし,自分の人生の大切な判断をしなければならないときには,必ず実の父がいた。最初の私の岐路は高校進学であった。テニスでインターハイなどの全国大会で活躍することが目標だった私は,テニス強豪校からの誘いがあり,そこへの進学と地元進学校への進学で揺れ動いた。心の中では,地元進学校に行きたいと思っていた私の気持ちを見抜き,強く進学校への進学を勧めてくれた。

就職と大学院への進学を迷っていた時も,父は自分が取締役をしていた銀行の系列である三菱銀行に行ってもらいたいというようであったが,「清水家に一人くらい変わったやつがいてもいい」といってくれ,内定を断るとともに,大学院への進学を勧めてくれた。それも,私の本当に気持ちを理解していたのであろう。

その父も,大学院の博士課程の時に他界してしまった。勤務していた銀行内部の派閥闘争に敗れ,銀行の取締役から役員で転籍した会社の倒産,それと同時に入院してしまった母,祖母の看病をしながら,私の博士課程での研究の継続ができるのかどうかといったことを気にしながら,旅立っていった。

しかし,今思うと,故郷も父母も,遠く離れまた他界してしまった後でも,遠くからいつも支えてくれている。今となっては,「遠きにありて思ふもの』なのである。

(バンクーバーにて)