「転機」

カナダの大学で研究を始めて,早いもので1年と数ヶ月が過ぎた。とても美しい青空が拡がるジェリコビーチでのErwin Diewert教授とのランチの時である。彼が言うには,研究者には,いくつかの転機があるとのことであった。彼にとっては1970年代半ばだったという。彼は数学者でもあるのだが,指数の重要さに気がつき,地味ではあるが,それ以降に花形の経済理論研究から指数理論研究に転じたという。後にノーベル経済学書を受賞した彼の恩師に道を示されたという。

私にとっての転機はなんであったのか,ということを考えさせられた。
やはり,私自身の転機には,多くの恩師と呼ぶべき人たちによって進むべき道を示していただいてきた。最初の恩師である田中啓一先生と伊豆の海岸を歩いていたときに,研究者を目指してみないかと言われた。中学・高校時代はテニスに明け暮れ,怪我のためにテニスを続けてはいたものの大きな目標は見失っていたときだったため,何となく研究者としての道を考え出した。

大学院の修士課程での実質的な指導教授だった中村貢教授からは,研究テーマの大きな転換を促された。指数理論であり,その一つの方法としてのヘドニック理論というものの研究を始めるきっかけをいただいた。22歳から23歳になろうとしていた時である。その後,中村先生のすすめもあり,ヘドニック理論の当時の第一人者の東工大の肥田野登先生を師事し,さらに肥田野先生からご紹介を受け小野宏哉先生と出会った。中村先生からは,教え子である西村清彦先生をさらに紹介された。中村先生に研究室に呼ばれ自分はもう歳なので西村先生にご指導をいただくようにと言われた日のこと,肥田野先生から小野先生にご指導いただくために麗澤大学を訪問するようにと言われた日のことは今でも覚えている。そして,後に博士論文指導をいただいくこととなった浅見泰司先生との出会い。米国から帰国されたばかりの先生と東京理科大学で開催された学会で議論させていただいたことは鮮明に思い出される。西村先生との最初の議論,小野先生との最初の議論も忘れることはない。そんな中で,不動産価格指数の研究へと入っていった。

最初の研究所でも,次の職場でも一貫して不動産価格指数の研究をしてきた。最初の職場では,昭和45年の国富統計で土地資産額の推計をされた担当された馬場元氏と机を並べ,上司には日本の都市計画制度や不動産鑑定評価制度の立ち上げに関わられた小林忠夫氏,初代地価公示室長で高校の先輩にもあたる河野勉氏からは本当に多くのことを学ばせていただいた。不動産価格指数を考えるためには,多くの実務的な知見を得ることができた。

そして,渡辺努先生との出会い。西村先生が日銀に行かれたため,直接に指導ができないので渡辺先生とご一緒に仕事をしなさいとご紹介を受けた。そして,さらにErwin Diewer教授との出会い。

この研究を始めて,四半世紀が過ぎようとしている。人との出会いによって進むべき道を示され,ただ純粋に学び研究をさせていただくことができた。

残すところ自分の研究者人生も20年とちょっと。Erwin Diewert教授からも次に進むべき道を示していただいた。次の仕事は,この道を純粋に歩き続けることと,私自身が学生や一緒に学ぶ若い共同研究者に対して道を示すときなのかもしれない。


                      清水千弘(バンクーバーにて)