「無駄」

最近において,無駄をなくせということがしばしばいわれる。財政がどんどん厳しくなる中で,必要がない経費は削減すべきだというのである。いわゆる「仕分け」と呼ばれ,最近では「行政事業レビュー」と呼ばれている。無駄なお金,無駄な時間など,「無駄」なものは,なくしていったほうがいいに違いない。

財務省からの依頼で,昨年に続き,今年も,そんなことを考えさせられる機会があった。その中で,「無駄」とは,いったい何を持っていうのかということを考えなければならなかった。

学生時代にも同じことを考えたことがある。読書ついてである。ある哲学者は,我々には,時間に制限があるのだから「良書」を選んで読むべきであると言う。一方,「良書」など分からないのだから,とにかく多読することが大切なのだという人もいる。

確かに,当時の私にとっては,限られた時間の中で博士論文を書いていくという意味で,無駄な本や無駄な論文などと出会うと,その「無駄」に過ごした時間に後悔させられることも少なくなかった。しかし,それから10年,20年たった時に,それが「無駄」な時間でなかったと気が付くことがある。ふとしたことで,その時に形成されたものの考え方や知識が役立つことは少なくない。年を重ねるごとに,まったく無駄だと思っていた読書や仕事が,自分を助けてくれる機会が増えているのである。

そうすると,ある時間において,その時に「無駄」と思ったものも,長い時間を過ぎた時に,それが実は自分にとって必要なものであったということである。
では,例えば,ある時間において,これは「無駄」だからやめてしまおうということが本当に言えるのであろうか。その「無駄」という判断は,何を根拠として行うべきなのであろうか。一度,壊してしまったものは,それが必要と感じた時に再生産するには,多大な時間とコストがかかることは,容易に予想できることである。

「無駄」かどうかということが取りざたされる背後には,ゆとりのなさがある。確かに,わが国の財政には,ゆとりなどあるはずがない。しかし,「無駄」というものは,そんなに簡単に決めることはできないのではないか。せめて,自分の残った人生の中では,もっともっと多くの無駄なことをしていかなければならないと思っている。

                         清水千弘(ソウルにて)