「食事」


今日,大学の同僚と彼の会員になっている海沿いのテニスクラブでランチミーティングをした。最近,ランチを取りながらの会議が増えているが,これはランチなのか,会議なのかといったことが疑問を思うことがある。

忙しいので,ランチをしながらの会議は効率的である。また,最近ではブレックファーストミーティングまで行くことがあり,朝ごはんもミーティングの一つになりつつある。日本のサラリーマンは,私はできる限り行かないが,特にディナーがミーティングの場に変わることは少なくない。しかし,この食事と会議が一体化は,食事を「いただく」ことから,単なるエネルギー補強に代わっている気がしてならない。

「いただきます」,「ご馳走様でした」といった食事の際に手を合わせることは,子供のころからの習慣であった。ついついそんな癖がついているので,どこの国にいても,食事をする際に手を合わせてしまう。また,どの国においても,昔は食事をいただけることに対して祈りをささげた。

鎌倉で禅の修行をさせていただいていた時も,神社で神道の修業をさせていただいた時も,食べ方についての作法を習った。また,禅の修行の時には,食事を作らせていただくときの配慮も習った。食事を作らせていただくこと自体が修行であった。食事に感謝する,その感謝を食べ方で表現する。何かの犠牲の中でこのお食事がある。多くのことを学んだ。

しかし,食事がエネルギー補強に変わったことは,大人だけではない。子供たちも,お腹がすいたので,ちょっとハンバーガーをかじる,コンビニでおにぎりを買う,スナックを食べる。ところ構わずバスの中でもどこでも食事をとる人がいる。ここには,食事を作るという基本がスキップしているために,または,食事を作る子人の顔を見えないために,「いただきます」,「ご馳走様でした」という気持ちを伝える人がいなくなってしまっている。

カナダに来て子供と二人暮らしとなり,毎朝の朝食と子供のお弁当を作る。夕食もできる限り造り続けてきた。明日の帰国を控えて,子供から,「最後のお弁当,お疲れ様」という言葉が出てきた。父親が毎日作り続ける食事に何かを感じてくれたようだ。

「いただきます」,「ご馳走様でした」という言葉を聞く機会が少なくなる中で,私たちは家族の中から,社会の中からたくさんの大切なことを失いつつあることを感じる。「いただきます」,「ご馳走様でした」といった言葉が出る食事をできる限りたくさん家族ととることが大切だと感じた。

清水千弘(帰国前に・バンクーバーにて)