「失われたもの-国際社会で生き抜くために-」


バンクーバーに来て,大学時代の恩師の一人である佐藤経明教授を思い出した。佐藤先生は,中国経済,東欧経済の第一人者であり,マンツーマンでドイツ語の原著の輪読を通じて熱心にご指導くださった。ある日の講義の時に,日本人が理解できないことは,「民族問題と宗教問題」であると言われた。当時は,
1990年の東西ドイツの統一,1991年のソビエト連邦の崩壊と,東ヨーロッパを中心に,世界情勢が大きく変革する時期であった。毎日,衝撃的な映像が飛び込んでくる中で,多くの刺激を受けたことを思い出す。

いわゆる冷戦の終わりは,世界を一変させた。国境を越えた人々の流動性が高まり,さまざまな国へと移民となって広がっていった。
日本で小学5年生になる末っ子のクラスメイトの大半が,中国から移民してきた子供たちである。すでに,カナダで生まれ育った二世たちも多くいる。アジアのほかに,欧州はもちろんのこと,北欧・南米やインド,シリア,イスラエル,イランなどからも多くの子供たちが来ている。

ここに,国際社会の縮図がある。私が大学生のころには,国際社会で働くということは,米国を中心とした経済システムの中で,英語を言語として働くものと強く信じていた。しかし,バンクーバーには,中国,韓国を中心としてアジアから多くの移民が来ており,南米からはヒスパニック系の人々が,さらには中東などからも多く人々が集まり,一つの社会を作る。様々な民族が,異なる価値観,宗教観,文化を持って集い,そこで暮らし働く。皆が等しく英語を話すが,それが母国語ではない。それぞれの癖を持った英語として話す。

国際社会に生きるということは,相手の価値観に迎合するのではなく,自分が帰属する民族としてのゆるぎない価値観と宗教観・文化的知識を基盤として,それぞれが尊重しあうことが大切であることを学ぶ。佐藤先生がおっしゃっていた意味が,少しわかった気がする。

しかし,私は日本民族ではあるが,どのような価値観,宗教観と文化的な背景を持って国際社会で生きていくことができるのか。自分の中で欠如している多くのものが浮き彫りにされてしまう。そうすると,この世界では,自分自身を見失ってしまうことがしばしばある。

わが国は,1991年のバブル崩壊後から,「失われた10年」と揶揄されたように深刻な経済不況に直面した。そこで,我々が失ってきたものは,経済的優位性・工業技術的優位性だけではないのかもしれない。その背後には何が起こっているのか。生産性が低下しているとか,金融システムの問題だとかと,様々な経済的な問題が指摘されているが,我々に欠如していたのは,国際社会で生き抜くための基盤ではないか。日本民族としての価値観や宗教観,文化的背景の欠如ではないか。私も含めた多くの日本国民が,日本民族としての価値観を見失う中で,国際社会で漂浪しようとしているのではないか。

佐藤教授の講義の中で読んだ,ヴァイツゼッカー大統領の198558日の連邦議会での演説の一節を思い出す。「過去に眼を閉ざす者は,未来に対してもやはり盲目となる」と。我々は,経済成長を実現する中で,様々な過ちを犯してきた。多くのものを喪失させてきた。それに眼を閉ざした時,本当の未来を失ってしまうのではないか。我々が犯してきた過ちを直視しなければならない。

平成23228日 バンクーバーにて(UBCの研究室にて)