奇跡が起こってくれれば

「僕は絶対あきらめない:車いすテニスにかけた22歳の生と死」。私の教え子だった竹畠明聡君の本が麗澤大学出版会から出版された。そして,今,滞在しているバンクーバーに届けられた。たった一年だけ,私のクラスにいた学生ではあるが,これからの教員生活の中で最も忘れることができない学生の一人になるに違いない。

彼との出会いは,私が担当する経済学入門ゼミの最初の講義の時である。抗がん剤治療の後であったためスキンヘッドであったこと,車いすに乗っていたこと。そんな外形だけでなく,最初の講義の終わった後に,「少し治療のために福岡に帰るが,講義の単位が取れなくなってしまうのではないか」と相談されたこと。その日のことが,今でも鮮明に思い出される。その出会いの日の記録が本にあった。「経済学って,人間の行動を観察したり,予測することが,元にあるらしいので,興味がわきました」と。私の経済学に対する口癖である。ノーベル経済学賞を取ったスティグリッツの教科書とマンキューの教科書から頂いた言葉である。とりわけ,不可解な人間行動を分析する学問だから,正答はない。また,私の専門は計量経済学のため,予測やシミュレーションを行う。しかし,将来のことなど,誰もわからない。だから高校まで答えと一致するかどうかだけが求められてきた学問と違い,とても面白いということを,いつも最初の講義で話をする。そんな話に興味を持ってもらっていたんだと嬉しくも思う。

以前にエッセイでも書いたが,私の講義は図書館の4階でやっていた。コンピューターが使えること,図書館なのでいろいろと本を探させたりするのに便利であるため,あえてそこを利用させてもらっていた。手術が終わった直後であるにもかかわらず,4階からエレベーターを使わずに上り下りをしていたことは印象深い。一緒に,南柏の駅前のすし屋で飲んだこと,福岡の病院の病室で彼の夢を聞かせてもらったこと,最後に自宅療養をしている彼の自宅で彼のこれからの計画を聞いたこと,本当に前をしっかりと向いて生きていた。なぜ,あれほどに前だけをしっかり見つめることができるのかと,強く感じたものだった。

そんな中でも,Kは大丈夫ですか,あいつは気持ちが弱いからとか,Aは卒業は大丈夫なんですか,大分単位を落としているようですから,と麗澤の友人を心配している彼が,とても大きくも見えた。自分が病気になって勝手なことばかりしているから,妹には随分と我慢ばかりさせているんですよね,という言葉も忘れられない。本当に優しい気持ちも持っていた。そんな彼の姿が,本の中からもしっかりと浮かび上がってくる。

私のもう一つの麗澤大学の担当科目である統計学では,確率を教える。その最初の講義では,次のことを最初に話す。「我々は確率に支配されている。事故にあう確率,がんで死ぬ確率,宝くじに当たる確率などはすべてわかっていて,その確率の呪縛から逃れることはできない。それから逃れることができたときには,それを人は奇跡という」と。奇跡が起こってくれることを願ったものの,それは起こってくれなかった。我々に多くのメッセージを1冊の本に残して。

平成23年9月11日 バンクーバーにて