「見える学生」と「見えない学生」
                                                    
清水千弘


7月の最初の土曜日に,卒業していった学生たちが企画して,OB・OG会を開催してくれた。学生たちとよく飲みに行っていたお店を貸切り,大勢の卒業生たちが集まってくれた。私がしばしば,この店の料理はうまいが,日本酒の種類が少ないといっていたことを覚えていてくれたようで,私が好きな日本酒も特別に用意してくれていた。なかなか気が利くようになったと,こんなことからも成長を感じた。

卒業後,初めて顔を合わせる学生もいた。静岡や栃木など,少し離れたところにいる子たち,仕事があったといって遅い時間に駆けつけてくれた子たち,参加できないからと言って会の途中に電話をかけてきてくれた子など,さまざまであったが,本当に多くの卒業生と,直接・間接に会うことができた。

会の中では,とにかく聞き手に徹することとした。どうしても説教じみたことばかり話をする教員というものは,困ったものである。その典型が私である。いつも卒業生が来ると,自分のことばかりを話していた気がする。久しぶりの再会に喜び,いつもついつい無邪気に話し続けてしまうのである。しかし,今日ばかりは,子供たちの話を聞こうと思っていた。

結婚した子には,いよいよ子供が誕生するといったおめでたい報告から,仕事での悩み,失恋,転職など,さまざまな話を聞いた。彼らが学生の時にも,いろいろな話をしてきたが,その喜びと悩みの深さは,ずいぶんと変わっていることに,とても驚かされた。とりわけ悩みの深さは,今や自分が今まで抱えてきた問題をはるかに超える問題なども聞かされた。今まで教師と学生といった関係の中で話をしてきたようなことはできないと感じた。助言などといったことはとてもできるものではなく,ただ聞き,一緒に考える程度のことしかできなかった。会の終わりには,とても素敵な寄せ書きなどのプレゼントをもらい,本当に幸せな時間であった。

自宅に帰り,いただいた寄せ書きをしみじみと読みながら会の余韻に慕っていると,次々とその日に会うことができなかった子たちの顔が浮かんできてしまう。その子たちは,元気にやっているのであろうか。今日,顔を見て話ができた子,電話をくれた子たちは,ある意味では,「見える学生」であった。しかし,ここに顔を出すことができなかった「見えない学生」たちは,どうしているのであろうか。学生時代からとりわけ心配であった子たちの顔を見ることができなかったのである。転職をしたといううわさを聞いた子,会社を辞めてしまったといううわさを聞いた子などである。教師として目を向けてあげないといけないのは,この「見えない学生」かもしれない。OB・OG会などに来ることができる子は,今をしっかりと生きることができている子である。もちろん,仕事が忙しかったり,遠くにいたり,また,ほかに予定があるために来られない子がいることも確かである。その後,会に来ることができなかった子たちからも連絡があり,都内に出てランチをすることもできた。

いつも講義で会っている学生も同様であろう。私のそばに質問などにやってくる子たちは,講義に出てきている子たちは,「見える学生」である。そして,ついつい彼ら,彼女たちばかりに目が行ってしまっている。しかし,そこで,自分の目に映らない「見えない学生」と,どのように向き合っていくのかということが大切なのである。彼らのほうが,むしろ私を必要としているかもしれない。今,私が「見えていない学生」たちを,見ようとする目を持たないといけないのであろう。「見える目」にしていかないといけないのである。
2年後に,もう一度,OB・OG会を開催してくれるという。その時には,会うことができなかった「見えない学生」が参加してくれることを祈りたい。私自身が,きちんと「見える目」を持っていることを願いたい。
 
(2011年7月7日 研究室にて)