「母見舞う」
                                                    清水千弘

 「千弘君,身体に気をつけて頑張ってね」。今から,20年前,母からかけられた最後の言葉である。父が勤めていた会社が倒産し,学者になるという志半ばで大学を去り,就職をするための入社式に向かう日である。実家のある大垣から東京に向かうときに,大垣駅まで弁当を作って見送りに着てくれた。
 入社する会社の寮に戻ると,寮のおばさんから,母が倒れたという連絡を受ける。私を見送り,自宅に戻った後に,疲れていたのか布団で横になろうとして,布団をひきながら倒れていたという。祖母は,父が勤めていた会社の倒産のショックで痴呆になってしまっており,母が倒れてことには気がつかない。父は,人事担当の役員として会社の人員整理などに追われていたため,帰宅も遅くなってしまった。倒れた後,半日ほど経った後に,帰宅した父によって発見された。脳内出血である。
 慌てて,夜行列車で大垣に戻った。緊急手術をし,その後,兄は仕事に戻ったため,父と二人で,数日間夜通し交代で看病をした。そして,入社式の前日に,父から「男は仕事を優先しないといけない。入社式に行きなさい」と言われる。仕事を失った父の言葉は重い。後ろ髪を引かれる思いであったが,東京に戻り,入社式に出た日のことを鮮明に覚えている。
 その後,母は,奇跡的に一命を取り留めた。しかし,言葉と身体機能を失うという障害を残してしまった。それから二十年間,母は,リハビリを行いながら,車椅子での生活を取り戻すことはできたものの,言葉が戻ることはなかった。
 そして,今年の夏である。スコットランドの学会に参加していたときに,母の容態が悪化としたという連絡が入る。そして,兄からは,父が言ったように「男は仕事を優先しないといけない。お役目を全うしてから大垣に帰ってきなさい」という連絡であった。
 帰国後,母の入院している病院に行く。もう口からの栄養をとることができないので,胃に直接に補給をすることになるという。意識も,以前は多少の反応はあったものの,なかなか意識がしっかりしなくなってしまっていた。兄は,そのような状態になってまでも,母は生きていかないといけないのだろうかと悩んでいた。いろいろと話し合ったが,与えられた命であるので,手術をしてもらい,命をつないでいただこうということとなった。
 今週,名古屋で講演をさせていただくという機会を頂戴した。学会も重なってしまっていたため,講演の前のわずかな時間を縫って,母のいる介護施設に行く。母は,私の顔を見ても,何の反応もない。もう,ただベットに横になっているだけである。母を見舞ったとしても,母は私のこともわからなくなってしまっている。それでも,母を見舞うことの意味は何であろうか。
 かつて,もう少し意識があったときでもそうである。私は,二ヶ月に一度程度しか,母を見舞うことができなかった。それも,長い時間母のところにいることはできず,数時間の見舞いである。行った瞬間は喜んでくれるが,帰るときには母は涙を流していた。見舞いに行ったとしても,最後は母を悲しませてしまっていたのである。
 母を見舞うということは,どのような意味があるのであろうか。息子としての自己満足だけなのであろうか。その反面,仕事をするということは,どんなことなのかということも考えさせられる。
 兄は,父と母は,私が学者になるという夢を持っていたにもかかわらず,志半ばで大学を去ってしまったことに負い目を持っていたという。しかし,今,いろいろな方のご支援のおかげで,学者になることはできた。その中でのお役目をいただいているのだから,そのお役目を果たすことが母が喜ぶことだという。本当にそうであろうか。もっと,私と過ごす時間がほしかったのではないか。見舞いに来たとしても,すぐに帰ってしまう私を見て,どのように思っていたのであろうか。
 過去のことは,もう取り戻すことはできない。次に私が母のところに行くことができるのは,年末になってしまう。母が私のことがわからないとしても,私の手を感触はわかってくれているはずであると信じたい。私の言葉が聞こえていると信じたい。
 仮に,私の手の感触を感じることができていなかったとしても,声が聞こえていなかったとしても,息子として母のところを見舞うのは当たり前のことではある。こんなことを考えてしまっている私がいる。私は,「まだまだ」自分中心にしかものを見れていないのかもしれないと反省させられた。
 
(2010年12月5日 名古屋のホテルにて)