「成長することの意味」
                                                 清水千弘

最近,マスコミの取材や学会のシンポジウムのパネリストなどを引き受けると,人口が減少していく中で日本の住宅市場はどのようになっていくのかといったことが聞かれることが多くなった。確かに,日本の人口は2007年から減少に転じている。我々経済学者の中では,人口が減少していくとモノやサービスに対する需要が低下するだけでなく,労働力も低下してしまうために,経済に悪い循環が生まれるといったことがしばしば指摘されている。そして,日本では,常に経済政策というと,その波及効果の大きい住宅着工戸数を増加させるようなことが行われてきた。しかし,人口が減少すれば,自ずと住宅着工戸数は低下し,ここ数年間は100万戸の大台を大きく下回ってしまった。そのようななかで,経済に対する悪い循環を増幅させてしまったというのである。加えて,多くの場合,人口が減少していくと,空き家率が増加し,不動産価格が低下してしまうので,さらに,経済を押し下げるという。確かに,私が住む光ヶ丘団地やその周辺エリアにおいては,空き部屋や空き家が目立っていることは確かである。

ここで,いつも思うのはなぜ成長しなければならないのかということである。なぜ,空き家の増加はいけないのかということである。経済の成長は,確かに我々に対して経済的な意味での豊かさをもたらした。それで,日本人は本当に幸せになったのであろうか。

ヨーロッパに来ると,なぜかそんなことを考えさせられる。もし,空き家が増加したのであれば,その家は,人間が必要ではないと言っているのであれば,必要とする人にあげればいいのではないか。土地を必要としているのは,なにも人間だけではない。ヨーロッパの多くの都市では,人が自然と共に暮らしている。馬や牛,リスや多くの鳥たちと一緒に人々が住まう。少し都市を離れれば,動物や自然の中に人間が生活させていただいているといった感じがある。

一方,現在の日本はどうであろうか。人間は他の動物たちと隔離して生きている。人に有害な動物は排除し,人間が都合のよい動物だけを身近に置き,人間にとっての都合がよい都市を造ってきた。もともとは他の動物たちが住んでいた空間を人間が奪い,そこに人間が住みやすいように他の動物たちと隔離するような社会を築いてきたのである。

そうであれば,人口減少下に入り,土地が余る時代に来るので大変だというのではなく,もともと人間の所有物でなかった土地であれば,それを自然に返していってもいいのではないだろうか。なにも,土地の上に人間だけが住む必要はないのではないか。大学の周りの森がどんどんと消えていくが,もう森を壊すのはやめていいのではないか。

こんなことを言うと,経済学者としては失格だといわれるであろう。経済学は,経済が成長することで,一人当たりのGDPが成長することで,人々が豊かになり,幸せになると信じてきたからである。

「無知」と「貧困」が戦争などの多くの問題をもたらしてきた。そして,経済学は,多くの人を貧困から救い出してきた。経済教育を通じて,それ以外の多くの教育を通じて,「無知」との闘争もしてきた。しかし,その一方が何かを失ってきたのではないかと思うことがある。それは,私自身がということである。何を忘れてきたのであろうか。家族と共有する時間か,仕事と私事のバランスか,社会への貢献か。旅の中で,それをいつも自分に求めて,そして,帰国した時に,自分の生活に取り入れようとしても長くは続かない。それが本質ではないからであろう。私たち経済学者ができることは何であろうか。やはり,高い経済の成長を求め続けていくべきなのであろうか。成長することの意味はどこにあるのであろうか。

この時期になるといつも思い出すことがある。大学院の時の恩師の言葉である。「清水君。経済学者を志す者は,謙虚でなくてはならない。なぜなら経済学というのは,人々の生活の,幸福のほんの一部のことしか考えることができないのだから」と。それを先生の教科書の表紙の裏に書かされたことを思い出す。そして,先生は続けた。清水君,経済学を学ぶ前に,アリストテレスの「二コマコス倫理学」を読みなさいと。
この本を読むことで,毎年,私の夏休みは始まりを告げる。


(スウェーデン ヨーテボリにて 2010年7月14日)