「つながる力」
                                                 清水千弘

最近,Twitterというものを始めた.Twitterとは,ウィキペディアによると,「個々のユーザーが「ツイート(「つぶやき」)」と呼称される短文を投稿し,ゆるいつながりが発生するコミュニケーション・サービスであり,広い意味でのSNSの1つといわれる」と定義されている.米国のオバマ大統領や日本の鳩山首相までもが,それを利用している.そして,彼らのつぶやきは,我々はリアルタイムで聞くことができる.
 それが爆発的に成長しているようであるが,その背景には,「つぶやく」という行為が,いわゆる「ひとり言」であるが,それを誰でもいいから聞いてもらいたいという願望と,「つながる」ということに対する願望が入り混ざっているものと考える.
 かつては,男たるもの愚痴をこぼさず,黙って,目の前のストレスや困難と向き合うことが美徳とされていた.そして,学生時代の仲間,職場の仲間,地域の仲間など,自分の生きてきた社会,生きている社会での目に見えない「つながり」を大切にし,そのつながりを信じていたと思う.暑中見舞い,年初の挨拶といったものが,ある意味で,それらの人たちとのつながりを確認する行為だったのかもしれない.
それが,インターネットの普及とともに,メイルでやり取りをするようになり,「ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)」とよばれるコミュニティサイトが誕生し,そして,今度はTwitterなるものが出てきた.メイルやSNSは,自分の社会の範囲でのやり取りである.自分の社会の広さだけがつながる空間となる.しかし,Twitterは,不特定多数の人たちに対してつぶやくのである.そして,目に見える形で,ゆるい関係が無限につながっていく.それが爆発的に成長しているというのは,何を意味しているのであろうか.
まず,「つぶやく」ということが安心してできる場所がなくなってきていることなのかもしれない.我々は,自然につぶやく,ひとり言を言っている.あまりにもそれが多いと,消して好意的には受け取られていなかった.そして,それは,ストレスが多い人ほど,それに耐えることができない人ほどに多い行為として受け止められてきた.それは,社会の中では,必ずしも是として見られてこなかったのである.それを,自由に吐き出すことができる場をみんなが求めていたのかもしれない.そのつぶやきの増加は,社会のストレスの増加と比例するのかもしれない.
続いて,「つながり力」の低下である.人は,誰かとつながっていないと不安になる.つながっていることで安心をする.しかし,つながることができるためには,個々人が選択し,選択されなければならない.つながるための努力が必要である.努力のないつながりは,物理的な距離が遠くなったり,時間が経過したりすれば劣化していってしまう.そのような関係しか造ることができなければ,つながり続けることはできなくなってしまう.もうひとつは,定義にもあるように,「ゆるい」つながりを求めているということである.固いきずなやつながりは避けたいという気軽さを求めているのである.
今までの友人・先輩や会社の同僚,教え子たちと,自分はどの程度のつながり力を持っているのであろうか.日本の企業は,どれだけの「つながり力」を国内・国外の企業や個人と持っているのであろうか.それは,TwitterやSNSなどがなかった時代と比べて,どのような変化があるのであろうか.教え子たちは,「ゆるい」つながりを求めているのであろうか.それとも,けして風化することのないつながりを求めているのであろうか.
つながり力は,人の生活を豊かにし,企業においても必ず成長をもたらすはずである.人を幸福にするためのつながり力とは,目に見えない,そして距離や時間によっても風化しないものであると信じたい.
この夏,二人の友人が,東京を,日本を離れるという.彼らとは,つながり続けることはできるのであろうか.

(2010年5月20日)