「教える力」と「育てる力」
                                                 清水千弘

今年も,多くの卒業生が巣立っていった.卒業生を送り出すときに,毎年思うことがある.自分が社会に送り出す子どもたちが,きちんと社会で生き抜くことができるのだろうか.最低限の生き抜くだけの力をつけることができたのだろうかと.私は,大学で理論経済学,数学,統計学,計量経済学,地方財政学,ゼミでは公共経済学・環境経済学を教えている.専門科目は到達レベルを測定することが難しいが,数学や統計学,計量経済学は,その到達レベルを測定することができる.
経済学部に入学してくる学生たちは,多くの場合が,理数系科目を得意としていない.しかし,私自身が,必ずしもそれらの科目を得意としてこなかったため,それが得意としない学生の障害を理解することができる.多くの場合が,中学・高校での指導方法の誤りによって苦手意識が埋め込まれていることに起因していることが多い.その意識を取り払ってあげれば,たいていの学生は,その学問の魅力を認め,そして一定の水準まで到達する.わが大学の学生たちも,多くの一流大学といわれる学生たちと同程度か,それ以上の水準に到達させることはできているという自負はある.その意味では,わが大学で統計学や計量経済学を学んだ学生たちは,社会が要求するこれら科目に対する知識水準を大きく上回っているものと思う.しかし,彼らが社会で生き抜くことができるとは限らない.そのような知識だけでは社会で生き抜くことはできない,幸せをつかむことができないことは容易に予想できるであろう.
つまり,いくら教授法を工夫して一定の目標に到達させても,私は「教えて」いるだけであって,「育てていない」のではないかということである.受験を前提として,知識としてだけ「教えている」多くの中学や高校,そして予備校や専門学校となんら変わらないのである.
昨年の初めに,英国のKings College of Londonの博士課程の学生を数カ月預かって指導したことがある.私のところに来た時には,ほとんど研究目標が達成できていなかったため,毎週一定の目標を設定して,研究を進めさせた.そして,一定の目標に到達させることができた.しかし,帰国前に自宅に招いて食事をしていた時のことである.その学生が次のようなことを言った.「あなたの指導方法は,アメリカンスタイルである.目の前の研究は,達成できるかもしれない.その指導には感謝している.しかし,そのような指導方法では,自立した学生を育てることはできない.英国では,指導教授は,議論のパートナーにはなってくれるが,細かい指示はしない.それは,学生に自立する力をつけさせるためなのだ」と.
学生の指導において,とりわけゼミの学生指導においては,目の前の目標があるためきめ細かく指導してきたつもりである.その結果として,昨年までは,学内の懸賞論文コンテストなどは,わがゼミが大半を独占してきた.一方,今年は,自主性に任せた結果,懸賞論文コンテストに参加することすらできなかった.懸賞論文コンテストに参加はできなかったが,自分でもがき苦しみ,2月までかかったが論文を書き上げた.どちらの学生が社会で生き残っていくことができるのであろうか.
教育とは「教え」,「育てる」と書くが,自分は,きちんと学生たちを「育てて」いるのだろうか.真の教育者になるための大きな課題である.

(2010年3月15日)