「御縁」と「御恩」                                        清水千弘

 昨日,モラロジー研究所の方に,私が大学にいるかどうかといった問い合わせの電話があったという連絡をいただいた。その電話主は,私だけでなく,わが家の大恩人の方である。そして,その方が,モラロジー研究所の機関紙である「れいろう」に1年間にわたり連載されていたというのである。このような御縁があるものかと驚いた次第である。

 私の父は地方銀行の取締役をしていたが,私が大学4年の時に,地元の製菓会社に転籍をすることとなった。父は,銀行の取締役と言えば聞こえはいいが,けして銀行員として,またはその人生において順調に昇進していったわけではない。私が小学生の時に発生した紡績不況の時には,一宮という紡績が中心の町の副支店長として多くの会社の経営危機に対応した。そのため,いわゆる反社会組織からの嫌がらせも自宅まであり,電話に出ないようにと言われたことを今でも思い出す。その心労がたたり心筋梗塞で入院したこともあった。その後,銀行の大手取引先である紡績会社の再建のために出向したこともあり,その時には銀行を首になってしまったのではないかと子供ながら心配したものである。

 この時の転籍も,悩んだ末のものであったことは聞いていた。しかし,転籍後にその会社の粉飾決算が見つかり,父の人生をまたまた大きく狂わせることとなる。そして,私が大学院の修士課程の2年生になった春に,会社更生法を提出することとなった。会社更生法を提出する前日に,父から電話があった。明日から大変厳しい日が続く。当分の間は,実家には帰ってきてはいけない。父も歯を食いしばって頑張るから,お前も一生懸命に勉強をしなさいということであった。父は,自分の父を小学生の時に亡くしていたため,中学しか卒業しておらず,学歴という壁に阻まれずいぶんと苦労をした人であった。そのため,私の大学院への進学は誰よりも喜んでくれていた。そのため,大学院だけは修了してほしいということを願っていてくれたのである。しかし,わが家の資産のほとんどは,その会社の副社長になる話があった時に,その会社の株式の購入に充ててしまったのでなくなったということでもあった。これが,私とわが家の苦難の始まりであった。会社更生法の提出後は,父は人事担当役員であったため,社員の方々の解雇を担当することとなった。父は疲弊し,自宅には苦情を訴える電話やガラスが割られるなどの嫌がらせも続いたという。その中で祖母は痴呆症となり,私の母は脳内出血で倒れ,生死をさまよったのちに半身不随となってしまった。二人が別々の病院に入院していたため,父は,その会社の清算後は,その二人の看病に追われた。
そのようななかで,父を顧問として迎えて下った方が電話主の方であった。その方は,地元でベンチャー企業を成功されていた。私は,そのような中で,大学院の博士課程に進学することができたのである。この方の父に対する支援がなければ,私は博士課程などに進学ができていなかったのである。修士論文の執筆の時には,大学に行く交通費もなくなり,1週間以上も下宿にこもって,当時は結婚していなかったが家内の実家から送ってもらった薩摩イモだけを食べて泣きながら論文を書き上げたことを思い出す。そんな苦労があったので,博士課程には行きたくなかった。行くことはできないと思っていた。しかし,そのような御縁と御恩のおかげで,私はまだ勉強を続けることができたのである。

 しかし,父は,その数ヵ月後に癌に見舞われる。せっかく,顧問にお招きいただいたものの,その会社になにも貢献できなくなったことを,父はずいぶんと悔やんでいた。そして,私が博士課程の2年生を迎えた4月に,父は他界した。博士課程進学後の夏に父が入院したため,その後は父,母,祖母と3人の看病に追われた。精神的にも経済的にも限界を感じ,私は大学院を中退することとなった。そして,その中で多くの方の期待を裏切ることとなり,また,自分の不徳もあり指導教授との関係が悪化し,研究者になるという道を自らが絶ってしまった。

 その後,10年余り過ぎたのちに,本学に迎えていただいた。私が今,学者になれたのは,実に多くの方に支えられてのことである。まずは,この電話主の方のわが家への支援がなければ,中退してしまったとはいえ,博士課程に行くことはできなかった。博士課程に行くことがなければ,学者になることはできなかったかもしれない。その後,学位を取ることもできなかったと思う。そして,私が,大学院を去った後に様々な風評を立てられる中で苦しい環境に置かれた時も,変わらずに支えていただいた一部の先生方の支えがあった。そのおかげで研究を続けることができた。何よりも,家族の支えが一番大きかった。

 今日は,人生とは,いかに多くの御縁と御恩に支えられて生きさせていただいているということを改めて思い出させていただいた。

(2009年9月26日)