「無力」                 清水千弘

今年の三月に,執行部宛てのメーリングリストにある学生の退学報告が入った。自分のクラスの学生である。その彼は,私が出会った時は,すでに車椅子生活をしていた。この大学には,車椅子テニスの有名選手がいるということで,その選手に憧れて入学してきたのである。最初は,何かの事故で足の機能が低下したものと思っていた。そして,四月のある日,病院に戻らないといけないので,二回講義を休むこととなる。その配慮をしていただけるものかという相談があった。当然,公欠扱いとなる旨を教え,教務課で手続きを取るようにと伝えた。そして,その入院から復帰してきたときには,車椅子からは解放され,どうにか自分の足で歩くことができるようになっていた。私の講義は,図書館の四階でしていた。講義が終わり全員が退出するのを見届けてから教室から出るのだが,エレベーターを使わずに,自分の足でゆっくりと階段で下りていた彼の姿は印象的であった。きっと,彼の足は元通りになるものと,安心したものである。

しかし,彼から自分が極めて難しい病であることを告白される。16歳の発病から転移を繰り返し,ようやく大学に入ってきたという。彼に対して,自分ができることは何か。教師としてできることは,ただ講義をするだけである。講義を通じて自分のメッセージを伝えるしかできない。教師というのは,なんと「無力」なものなのか。単なる専門馬鹿であり,自分の専門を教えることしかできないのである。どんなに良い研究をして論文を書いたとしても,社会の中で積極的に活動したとしても,自分の専門の中だけの世界であり,目の前で闘っている学生に対してできることは,講義をするしかできないのである。講義を,いつしか惰性でしていた自分にとっては,この講義の中で何かを学び取ろうとしている学生の存在は,講義の場を常に真剣勝負の場へと引き戻してくれた。自分が学生の頃,講義は真剣勝負の場だとおっしゃっていた先生のことを思い出した。多くの先生が真剣に講義をしていたことを思い出した。

そして,後期も終わり,三月の国際会議に向けての準備をしている最中,退学の連絡が入った。期末試験のときには,いつも通りの彼に会っていた。そして,クラス担任として,春休みの過ごし方を伝え,四月の再開を約束していたのである。なぜかという気持と嫌な予感が走った。詳細を聞けば,また,再発してしまい,治療に専念することとなったという。そして,会うこともできず別れることとなってしまった。そこで,教務課から彼の住所を聞き,手紙を送ることとした。そのなかで,夏には会いに行くという約束をしたのである。

昨日,ようやくその約束を果たすことができた。一学期も終え,ようやく福岡を訪れることができた。さて,ここで,何を彼に伝えたらいいのか。何ができるのか。やはり「無力」である。気の利いた言葉の一つでもかけることができればいいが,自分が経験をしたこともないような慟哭を味わい,自分が直面したこともないような恐怖と闘い続けた学生である。ただただ,専門馬鹿で年だけとってしまった教員というのは,「無力」なのである。私ができることは,自分の経験を伝えるだけである。自分は,彼の歳の時にどのように過ごしていたのか。彼の歳の時にどんな本を読んでいたのか。書店の中で自分が読んでいた本を六冊見つけることが出来たので,後一冊は直感的に自分が読みたいと思った本を買って見舞いに持っていくこととした。
病室に入ると,静かな病室の中に彼が待っていてくれた。久しぶりに会う彼は,この四月からの治療と現在の状況についていろいろと話してくれた。私が考えていた以上に大変な闘いをしていたのである。しかし,彼の話を聞くことができても,やはり何もすることができない「無力」な自分がいる。しかし,抗がん剤と闘い,放射線と闘ってきた彼は,この秋または冬にはバングラディシュに行きたいという。同じく,私のクラスにいた同級生にお願いし,最貧国の一つであるバングラディシュに行きたいとういうのである。そこには,何かを感じたようだ。そんな前向きな彼から,私のほうがいろいろなことを学ばせてもらった。彼のこれからの計画を聞かされ,やはり自分は「無力」。ただ,彼の話を聞き,自分が彼の歳のときに何を考え,何をしていたのかを話すしかできなかった。

大学院の時に,経済理論研究でご指導をいただいた千種義人先生の言葉を思い出した。「清水君。経済学者を志す者は,謙虚でなくてはならない。なぜなら経済学というのは,人々の生活の,幸福のほんの一部のことしか考えることができないのだから」と。それを先生の教科書の表紙の裏に書かされたことを思い出す。そして,先生は続けた。清水君,経済学を学ぶ前に,アリストテレスの「二コマコス倫理学」を読みなさいと。この夏休みに,もう一度読み返してみたい。

 (2009年8月1日)